hirotatu123の日記

思った事を書き込みます。

雨で、暇なので、ふと!!ラッシャー木村を思い出しました。(;^_^A






雨で、暇なので、ふと!!ラッシャー木村を思い出しました。(;^_^A
ラッシャー木村とは、金網の鬼であり、マイクの鬼でした。

本名は木村政雄と言い、北海道出身である。元来よりプロレスラー志願であり、角界入りしたのもプロレスラーになるにあたって体力つけるためであった。力士としては幕下20枚目まで登った後に廃業、同じ角界出身の豊登との縁で東京プロレスの旗揚げに参画するも、1年後に崩壊。その後は国際プロレスへ活躍の場を移し、アメリカで武者修行の後に日本で初めての金網デスマッチを開催した。金網デスマッチでは無敵を誇り、いつしか彼を「金網の鬼」と呼ぶようになった。コノヤロー

1981年に国際プロレスが解散すると、活躍の場を新日本プロレスに再度移して国際プロレス時代の仲間であるアニマル浜口らとアントニオ猪木との抗争を繰り広げた。その後内紛を経てUWFへ移籍したが、そこでもトラブルによって離脱し、全日本プロレスへ移籍した。コノヤロー



国際プロレス時代の仲間と共に正規軍との抗争を繰り広げた。この頃より木村のマイクパフォーマンスは徐々に注目され始めてきた。新日本時代にも所謂「こんばんわ事件」で注目を集め始めていたが、ジャイアント馬場との義兄弟宣言(「アニキ!」)以降はベビー転向と共に本格的にマイクパフォーマンスを繰り広げ、その犠牲ネタになったレスラーは数知れずであった。それは全日本プロレスのモットーであった「明るく、楽しく、そして激しく」の「明るく、楽しく」を具現化したものであった。コノヤロー

馬場の死後、全日本プロレスを巡る内紛から三沢が離脱し、NOAHを立ち上げるとそれに同調した。還暦を迎えた後も、現役で活躍し続けたが体力の衰えはぬぐい切れず、2003年以降は長期離脱。ビデオレターで引退を表明した。

2010年、肺炎で死去。享年68歳であった。前述したビデオレターの様子から、脳卒中を患ったのではないかと言われていたが、実際に患っており、車いす生活であったようだ。

今頃は先に旅立ったジャイアント馬場らと共に天国マッチ王座をやりつつ、あの世をネタにマイクパフォーマンスで閻魔大王をはじめとしたあの世の多くの人々に笑いと感動を与えている事であろう。
スポンサードリンク







木村は馬場率いるファミリー軍団と永源遥渕正信らの悪役商会との明るく楽しいプロレスを提供した。一部ではお笑いプロレスとの声も上がっていたが、木村はこのポジションを全うし、試合後はマイクパフォーマンスで会場を沸かせた。
「まじめにやれ!」という野次が飛ぶときもあった。
しかし、木村はそれを耐え、試合の中でチョップに必死に耐え続けることで無言の反論をして見せた。

スポンサードリンク